東京地裁 令和7円2月26日判決 認知症の親が作成した公正証書遺言が無効とされた判決

事案の概要

  • 被相続人B(平成29年8月13日死亡)が、平成27年12月8日に公正証書遺言(本件遺言)を作成。
  • 遺産は多数の不動産・金融資産等
  • 本件遺言の内容
    • 長男Y1:多数の不動産(№3〜13)、金融資産、その他一切の財産・債務(借入金等の大部分)
    • 長男の子Y2:ある土地(№14)とその上に建つ将来の建物、当該建物建築に係る借入金
    • 長女(原告):一部不動産(№16〜18)
  • 当事者の訴え:原告(長女)「本件公正証書遺言作成時に被相続人には遺言能力がなかった」として、本件遺言の無効確認を求めた。

前提事情・経過

被相続人の認知症等の経過

  • 平成26年7月頃(入院時)
    • 85歳。血糖コントロール不良で入院。
    • 脳CT:び漫性萎縮、小梗塞、慢性虚血性変化。
    • HDS-R:9点 → 認知症と診断(血管性認知症)。
    • 記憶は、人の顔・スケジュール等を覚えること困難。
    • 「忘れやすい」「失禁」などの記載もあり、家族も一人暮らしに不安。
  • 平成26年8月〜平成27年5月
    • 介護老人保健施設Hセンター入所。認知度「Ⅱb」。
    • 認知症の既往歴あり、「忘れやすい」と記載。
    • 不穏時に大声で怒鳴る等の行動。
  • 平成27年5月〜(遺言当時)
    • 特養ホームIに入所。
    • 平成27年7月18日 HDS-R:8点(前回より低下)。
    • 「うるさい」など怒鳴る場面あり、不穏言動が散見。
  • 平成28年2月10日以降
    • アルツハイマー型認知症と診断。
  • 平成29年6月16日
    • VSRAD検査:海馬・海馬傍回に顕著な萎縮 → アルツハイマー型認知症と矛盾せず。
  • 平成29年7月〜8月
    • アルツハイマー型認知症・記銘力障害・見当識障害と診断。
    • 傾眠傾向・経口摂取困難。
    • 同年8月13日死亡。

主な争点

  • 争点:本件遺言当時(平成27年12月8日)の遺言能力の有無
    • 原告
      • HDS-R 9点→8点という低スコア、アルツハイマー型認知症や脳萎縮からすれば遺言能力は欠如。
      • 遺言内容は原告に著しく不利で不合理、また当時傾眠傾向等もあり、本人意思に基づくとは考え難い。
    • 被告ら
      • 当日、計算と漢字問題に全問正解。
      • 公証人及び証人C(税理士)が能力に疑問を持たなかった。
      • 遺言内容は、各人が従前使用・管理していた不動産等を承継させる合理的内容。
      • 金融機関・司法書士等との取引も行っていた。
      • 原告自身も当初は遺留分減殺のみを主張していた。
      • HDS-Rはあくまで簡易検査であり、血管性認知症の「まだら認知症」の可能性がある。

裁判所の判断

(1)

  • HDS-Rの結果
    • 平成26年7月:9点
    • 平成27年7月:8点→ 一貫して非常に低く、「やや高度な認知症」レベルに該当。
  • 医療記録や施設記録から、
    • 早くとも平成26年7月頃には認知機能障害が明確で、家族も一人暮らしに強い不安を抱いていた。
    • その後も、怒鳴るなどの不穏言動が続き、平成29年のVSRADで海馬領域の顕著な萎縮が確認。
    • アルツハイマー型認知症は「不可逆的」「緩慢に進行」することから、遡ってみても、本件遺言当時に判断能力が回復していたとは考え難い。
  • よって、遅くともHDS-R実施時点には既にアルツハイマー型認知症に罹患し、症状も相当程度進行していたと認定。

その結果、本件遺言当時(平成27年12月8日)には、判断能力は「相当程度減退」していたとしました。

(2)遺言内容の複雑さの評価

  • 本件遺言は、
    • 多数の不動産を三者(原告・Y1・Y2)に分配
    • まだ存在しない将来建物についての遺贈
    • 借入金をY1とY2で分担させる等
  • 単純な内容ではなく、「相応に複雑な内容」と評価。
  • このような遺言内容を理解し、自らの意思で判断・決定するには、一定程度以上の認知能力が必要であるところ、被相続人にはそれが欠けていたと判断。

(3)被告側の各反論に対する評価

  • 当日の計算・漢字問題に正解していた点
    • どの程度の難易度か不明であり、その一点だけで遺言能力を推認することはできない。
    • HDS-Rが極めて簡易な課題であるにもかかわらず、長期にわたり8〜9点という低得点にとどまっていることの方が重視される。
  • 公証人・証人Cが「能力に疑問を持たなかった」とする点
    • 公証人は当日の状況を記憶しておらず、遺言者能力に問題がありそうな場合のメモも残っていない。
    • 被相続人が認知症で特養に入所している事実は、公証人にも証人Cにも伝えられていなかった。
    • 両名とも、事前に「意思能力はしっかりしている」とY1から聞かされており、予断を持って手続に臨んでいた可能性がある。
    • 面談時間も短く、雑談などでの観察もほとんどない。→ 適切な能力確認がなされたとは言い難い。
  • 遺言内容が合理的である点
    • 本件遺言の実際の内容は「相応に複雑」であり、「さほど複雑でなく合理的」という前提自体が誤り。
    • そもそも本件遺言作成に至る経緯について、Y1の供述が変遷しており、合理性にも疑義。
  • 他の契約行為(金融機関・司法書士等との取引)がある点
    • 契約書の署名は、被相続人以外の筆跡と疑われるものも含まれる。
    • 専門家らが実際に本人と面談し、意思能力を確認したかどうかも不明。
    • VSRADで海馬領域に顕著な萎縮が見られた後も贈与契約書が作成されており、表面的な迎合・形式的関与にとどまっていた可能性もある。
      → これら契約の存在から、遺言能力の存在を直ちに推認することはできない。
  • 原告が当初は遺留分減殺のみを主張していた点
    • 原告は当初から被相続人の能力に疑問を持っていたが、カルテ等の資料を入手しておらず、また遺留分額が十分あると考えていた。
    • その後、負債の多さやカルテ取得により、遺言無効主張に転じた経緯には不合理はない。
  • HDS-Rの限界・「まだら認知症」の主張
    • 初期は血管性認知症と診断されていたが、後にアルツハイマー型認知症と診断され、VSRADの結果とも整合する。
    • HDS-Rはスクリーニング用だが、認知症の重症度の評価にも有用であり、他の医学的所見・行動観察と併せれば、十分な判断材料になり得る。
    • 被相続人の場合、「まだら認知症」というよりも、恒常的に判断能力が減退していたと認められる

結論

  • 裁判所は、本件遺言当時、被相続人は本件遺言の内容を理解・判断できるだけの遺言能力を欠いていたと認定。
  • その結果本件公正証書遺言は無効と判断した

実務的なポイント(まとめ)

  • 極めて低いHDS-Rスコア(8〜9点)が継続していたこと、アルツハイマー型認知症と海馬萎縮の所見が重視され、遺言能力否定の有力な根拠とされた。
  • 公証人が作成した公正証書遺言であっても、
    • 認知症の診断・施設入所など重大な事情が公証人に伝えられていない、
    • 実際の面談・観察が極めて形式的という場合には、遺言能力が裁判所で否定され得ることを示した事案
  • 遺言内容が不動産・債務の複雑な分配を含む場合、高度の認知機能が要求されるとして、「内容の複雑さ」も遺言能力判断の一要素として考慮されている。
  • 「他の法律行為を行っていた」「当初は遺言有効を前提に権利行使していた」といった事情は、医療記録・検査結果などと比較すると決定的な意味を持たないとされた。